長崎かぜだより「文化元年長崎梅ヶ崎事情 5」

夢のような僅か5日間の停泊だった。ヨーロッパ大陸北端ユトランド半島突端の東側ジュラン島のコペンハーゲン港―――遥かなる東洋の港ナガサキまで大航海の先を急ぐ大型帆船ナジェジダ号は、東からの順風をいっぱいに孕んで、1803年7月31日同港を出帆。コペンハーゲン湾を大きく旋回して、湾の出口にさしかかったその時、望遠鏡をかざすレザノフ団長の視界に入って来たのは、沈没船と思しき船体の残骸、それもどうやら1隻だけではない。更に眼を凝らすと、残骸の一つにデンマーク語らしき船名が認められる。「うーむ、これは見たくないものを見てしまった・・・・」と、レザノフは息を呑んだ。

しばし目を閉じ、ようやく合点が行ったレザノフは、津太夫ら4名と善六を甲板に召集する。「諸君、ちょっと進行方向の海面に注目してくれたまえ。おととしの4月、ここでデンマーク・ノルウェイ艦隊は対仏大同盟・盟主国の英国艦隊に屈辱的敗北を喫した。沈められた軍船20余隻の一部があそこに横たわっている」と、左手前方を指さす。―――世に云う「コペンハーゲンの海戦」である。王制でありながら“革命後フランス”の共和思想にかぶれて、「中立同盟」(対仏不戦同盟)をスェーデンやロシアなどと結ぶデンマークを牽制する大英帝国が、海軍最強の「ネルソン艦隊」をバルト海コペンハーゲンに差し向けた大海戦だ。

累々たる船の屍(しかばね)を遠くの水平線上に見つめていた善六は、恐る恐るレザノフに尋ねる――「英国艦隊を敵に回すと大変なことになりますね」
「わかるか善六君。西欧世界の海を知り尽くす英国海軍は、浅瀬や暗礁だらけのこの海に敵艦船を誘い込んで一網打尽にしたんだ」
レザノフは続ける「英国はこの春、休戦中のフランスに再び宣戦を布告したばかりだ」―――つまり、司令官ナポレオン率いるフランス革命軍との間で交わされた休戦協定(いわゆる「アミアンの和約」=1802年3月於フランス北部都市アミアン)を英国側が一方的に破棄したのである。何やら恐ろしい“訳”を知ってしまい、皆等しく悪夢の“沈没船「若宮丸」のトラウマ”を抱えていて更に青ざめる善六ら5人に、レザノフは優しく説明する――「諸君には、不吉で不愉快なものを見せてしまったようだ。しかし、懸念するには及ばない」――そして語気を一つ強めて「我がロシア帝国は、アレクサンドル皇帝の勇断を以て、対仏中立同盟からの離脱を英帝国政府に宣言している。英国がこの3月、対仏アミアン講和破棄・宣戦再布告に踏み切ったのは、明らかにこの“英露蜜月”協定による強硬策だ。ナジェジダ号が我がロシア帝国海軍旗を揚げている限り、英国艦隊がこの船を襲うことは決してない。諸君、あの帝国旗にかけてこの私が保証する」

船上の5人全員の安堵を見届けると、レザノフ団長は言葉をつなぐ――
「気分直しに、ちょっと珍しいものを諸君にお見せする」と云ってやおら胸の懐(ふところ)から取り出した物は、革の巾着に入れられた銀製の装身具らしき小物であった。
「善六君、これは何だと思うか?」
「マルタ十字のロザリオのような・・・・」
「ほう、さすがステパノビッチ君。しかし、いくらキリスト教史を学んだ善六君でも、それは違うんだな。カトリックやビザンチン正教の祈祷具にはない、さる異教の信仰具の一種で、これはその中でも特に珍しいとされる「ケルト十字(Celtic cross)」と云うものだ。銀地に金を象嵌(ぞうがん)した精巧なアミュレット(護符)のようだ。クロスの背後に大きな円環が重なっているのが、ケルト十字の特徴だそうだ。その円が何を意味するのかは不明、また十字形は、キリスト信仰とは無縁らしい。ケルト文化は文字を持たず、歴史の痕跡を残さなかったから、未だ何一つ解明されず、世界の学者たちの努力にも拘らずすべてが謎に包まれている」
「このような博物館級の細密金銀細工で、しかも謎めいた十字形の珍品が、何ゆえ団長殿の懐の奥底に?」
「その昔アングロサクソンによる征服を免れイングランドの先住民ケルト族の聖地の一つと云われるのが、イングランド最西端の「コーンウォール」地方だが、そのコーンウォール出身の英国海軍兵士の友人からもらったのがこのアミュレットだ。云わば英国海軍“お墨付き”のお守りという訳だ、このペンダントは」

―――多くの軍船と兵士の命を呑み込んだのがまるで嘘のような、波静かなジュラン島沖合を進み、使節団を乗せた帆船はやがてバルト海の“出口”にさしかかる。出口とはユトランド半島・ジュラン島のデンマーク側陸地に、スカンジナビア半島(スウェーデン)の南端がぐっと迫(せ)り出して来る「オーレスン海峡」のことで、互いに対岸まで僅か5キロしかなく、現在は海峡に鉄道と自動車二層式の大きな橋が架かっている。

右手はるか彼方にスウェーデンの陸地の輪郭を感じながら、オーレスン海峡を通り抜け、帆船ナジェジダはロシア海軍旗を改めて船首にも揚げ、いよいよ外洋航海に出る。ナジェジダの乗組員(海兵隊員)にとって「大西洋」は、制海権覇権国英国の監視海域を意味する。―――空は夕闇が迫り、北方はるか上空には、見るも鮮やかな緑色(りょくしょく)のオーロラが、壮大な天空カーテンのように波打っている。季節は八月なのに、北大西洋の夜空に突如現れた極地帯特有の“宇宙”現象オーロラの、この世のものとは思えない美しさに初めて接する東洋人たちの眼は、それが消えるまで天空に釘付けになった。

―――大西洋を南南西に針路をとる帆船ナジェジダの背後には、いつの間にか巨大な黒い気配が音もなく忍び寄る。それが英国艦船だと、乗組員の一人が気付いた次の瞬間、その黒い塊から2発の豪音が轟いた・・・・・。

<つづく> ©松原まこと 

 

 

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