長崎かぜだより「あゝ スリーダイヤ」

巨大な1,000メーター・ドックを誇る長崎三菱造船香焼(こうやぎ)工場が、2020年5月人手に渡った。奇しくも昨年秋、三菱財閥創始135年の記念式典が東京・丸の内で模様された矢先のことだ。熟練技術者600名を擁した香焼工場の売却先は、数ある下請けの一つに過ぎなかった大島造船(長崎県西海市)。三菱財閥の歴史上の起点「三菱長崎造船所」は、涙を呑んでその心臓部を明け渡したのである。

三菱の歴史は綺麗ごとでは語れない。幕末・維新の激動期、四国は土佐藩最下層の地下浪人(じげろうにん=半士半商の限界武士)の分際だった岩崎彌太郎が、一獲千金を手にして、まず頭角を現わす。その巧妙なやり口はこうだ―――薩長土肥連立新政府に食い込んだ盟友後藤象二郎と示し合わせて貨幣制度一新(両から円へ)の政府情報を事前察知し、行き場を失っていた旧藩札を10万両で買い占め、それを新政府に高値で買い取らせるという、現代ならまさに違法インサイダー取引を仕掛けた。西南戦争では新政府軍の武器弾薬、軍事物資そして兵員の海上輸送を独占し、その間内外より船舶数も飛躍的にふやして、岩崎三菱は一気に海運王に成り上がった。 

維新より遡ること7年前の1861(文久元)年、以来、彌太郎が幕府(維新後は新政府工務省)から借り受けていた長崎製鉄所(維新後は工務省長崎造船局)の敷地、施設、設備、人員の一切を公式に彌太郎に払い下げてもらった。こうして1884(明治17)年、長崎の地に「三菱合資会社造船部」が正式発足し、同時に公式ロゴ・マークを発表した。土佐藩山内家の紋「三ッ柏(みつかしわ)」と岩崎本家の紋「三階菱(さんかいびし)」を組み合わせた、つまり柏の葉3葉を“菱餅3枚”に置き換えたあの「スリーダイヤ」マークのスタートである。この一連の出来事を評して「一民間人による体のいい国有施設乗っ取り」と断ずる歴史家もいる。

「政商」を自認して憚らない岩崎三菱には、信奉者も多い代わりに批判者も少なくなかった。明治新政府の重鎮にして良識派で知られた西郷祐道(すけみち、隆盛の実弟)などは面と向かって「“国合っての三菱”と称して暴富を得るのは国賊と思わないか?」と直球を投げれば、彌太郎も負けてはいない――「国賊と申されるなら三菱の船を全部焼き払いましょう。それで困るのはどちらでしょう」と大した度胸。また、国立第一銀行を設立したばかりの金融界の実力者渋沢栄一を呼び出して、「貴殿と岩崎が組めば、この国基幹産業を我々で独占できる」と仕掛ければ、すかさず「産業は独占されるべきではない。機会は広く万民に与えられるべきだ。どうやら貴方とは理念が違うようだ。悪いが、これで失礼するよ」と渋沢が席を蹴ったのは有名な話だ。

そして時代は昭和へ。幸か不幸か、国が三菱を必要とする度合はますます深まった。戦艦だけでなく戦車、戦闘機、魚雷まで一手に造れるのはあそこしかない、ということになり、国が三菱の最大顧客となる。こうして三菱は不幸な“負の歴史”に踏み出す。長崎造船所はいつしか三菱兵器製作所を筆頭とする秘密工場群(一部は地下工場)と化した。先々の陸・海軍長期戦、持久戦を見据えて兵器は増産に次ぐ増産。決定的な労働力不足を補ったのは、軍が侵略先から連れて来た外国人“人材”。大陸や朝鮮から強制的に引っ張って来た中国人・朝鮮人を強制労働させる。この行為が後に大問題を引き起こす。実に100年近くも経た今日、これは人権無視と不当労働行為である、として慰謝料と損害賠償を求める民事訴訟が、中国と韓国の裁判所に、国でなく三菱を相手取って提訴される事態は、まさにここから始まっている。

昭和20年夏、広島に新型爆弾が落ちた三日後の早朝、長崎造船所の上空に飛来した米軍機、空中に大量のビラを撒いて行った。造船所飽の浦工場内に落ちて来た1枚を拾ったある三菱幹部は、その時のことを回想記の中でこう証言している―――そのビラは謄写版刷り日本語で『市民よ速やかに退出せよ』との見出しが大書され、驚愕の文言に続く「今日投下する爆弾はB二十九機が搭載する爆弾に匹敵する破壊力を持つ新兵器で、米国はこれを多数保持している。市民よ日本国天皇に速やかに降伏するように懇願せよ」。私の身体が一瞬凍りついた。これは大変なことになってしまった、と今度は足が震え出した。おまけにその時私は、広船(三菱広島造船所)に出張中の部下からの報告で、3日前広島に落ちた新型爆弾の惨状について詳しく聞いたところだった。それはあまりにも酷い知らせであった・・・・。回想記の証言は、ここで絶句するように終わっている。想像するに、とても聞くに耐え得ない、また、それを書き記すさえおぞましく、いやそれよりも、それが我が身にも迫っている恐怖から、言葉を失ったのではないだろうか?

まさしくその日、8月9日午前11時2分、三菱兵器製作所工場群を標的とするかのように、一発の新型爆弾が投下された。その日の早朝空から撒かれた“天皇に降伏を促す”ビラの目的は、不幸にして達せられなかった。

三菱“負の歴史”が、こうして一つの結末を見たことは、土佐の「いごっそう」からのし上がった彌太郎自身は知るべくもない。気骨ある土佐の血統は、彌太郎の2代先孫娘岩崎美喜(みき)にもしっかり受け継がれていた。彌太郎の長男久彌(ひさや=岩崎家3代目)の長女である彼女は、一族内では「女彌太郎」などと呼ばれた如く、血の気が多く気も強かった反面、心根の優しい天使のような性格を秘めていた。はたちで外交官沢田廉三(れんぞう)に嫁いだ沢田美喜は、大使夫人として華やかな海外生活を送る。持ち前の社交性と語学力それに旺盛な好奇心とで、交友関係もたちまち国際化し、モナコ国王妃グレース・ケリー、ノーベル賞作家パール・バック、米国国民的歌手ジョセフィン・ベーカーらとの人格的交わりは生涯続くことになる。

やがて任期を終えて夫婦共々国に戻れば、そこは準戦時体制。そして、日中・日米戦争開戦、最後に敗戦。財閥は解体され、岩崎家関連の屋敷並びに有価資産等も根こそぎ占領軍(GHQ)に接収されて、下谷茅町(かやちょう=現台東区池之端)岩崎本邸の一部は兵士(GI)たちの「慰安場」と化した。生れ育った我が家を貶(おとし)められた美喜は、夫と共に敢然と立ちあがり、慰安場使用を不服としてGHQに執拗に申し立てた。大財閥の娘の覇気(はき)に満ちたこの叫びは、占領軍総司令官マッカーサーまで届いた。占領地で一人の女性の勇敢で捨て身の抗議に接して、総司令官は彼女に手ずから返答する――「貴方は、敗戦国の指導者一族として、何を要求されても敗者の屈辱に粛々と耐えるべきです」――美喜は納得するしかなかった。そしてこれから起こるであろう多くの不条理を憂えた。やがてそこでは野放図に混血児が産み出され、親のない、中には肌の黒い孤児たちが、たちまち行き場を失う。美喜は天を仰いだ――彼らを一体誰が救えるというのか!? 感極まって固まっている美喜に、天からお声がかかった。彼女の最も近いところで彼女を見守っていたのが夫の沢田である。その夫の天の声であった――「孤児たちの人生を引き受けられるのは君しかいないじゃないか。君がやってみるというなら、僕も協力するよ」。―――この時沢田美喜は、孤児院建設を決意した。沢田夫妻のこの英断が、あのエリザベス・サンダース・ホームの大事業につながるのである。

青年時代から敬虔なプロテスタント信徒であった沢田廉三は、結婚と同時に美喜を信仰に導いている(東京・荒川教会で受洗)。敗戦後、失意と喪失感の中の孤児院開設は、両人の揺るぎない信仰の賜物であったに他ならない。大財閥の娘美喜は、気が付けば弱者支援の福祉家になっていた。また、美喜にとってエリザベス・サンダース・ホーム建設は、幾度かの戦争で巨億の富を築いて来た財閥の一員だった自身の出自への贖罪(しょくざい=罪ほろぼし)の念から出たものかも知れない。更に付け加えれば、夫・沢田の全面支援なしには成し得なかった孤児救済施設は、本来占領軍の責務として運営されるべきものを、占領された側からのある種の“人道的報復“の意地を示す壮大な舞台装置であったに違いない。

施設建設は、寄付金集めから始まった。いの一番に手を挙げた人物こそエリザベス・サンダース(Elizabeth Sandars)という米国聖公会の熱心な信者であった。美喜が大使夫人時代以来親交を温めて来た前述のグレース・ケリー王妃、作家パール・バック、ジャズ歌手ジョセフィン・ベーカー等々からの多額献金も貴重な資金源となった。そして、沢田美喜自筆の“寄付嘆願書”を受け取った5,000人のうちの大多数からかなりの浄財が集まった。現在施設が建つ神奈川県大磯町の土地購入及び園舎建設資金も、この時までの様々な献金・寄付金が財源である。もともと財閥岩崎家の別邸が建っていた当地は、財閥解体後の岩崎家が、財産税(固定資産税)の物納物件として国に差し出したものであったが、美喜はそれを400万円(現在通貨で5,000万円)で買い戻し、こうして再び岩崎血族のゆかりの場所となった。

今日、エリザベス・サンダース・ホームの広い敷地内には、「沢田美喜記念館」という私設ミュージアムが併設されている。展覧品は何と潜伏キリシタン遺物。知られざるキリシタン聖遺物コレクター沢田美喜が、主に長崎で収集した計851点を適宜公開する。美喜を長崎での聖遺物収集に駆り立てたのも、長崎の土地風土に極めて縁の深かった祖父彌太郎由来のものであったに違いない。尚、同展示室階上は、正面に十字架を掲げた沢田美喜記念礼拝堂になっている。

―――身体を張って2,000人の孤児たちの母親となった沢田美喜に会いに、人々はこの記念館を訪れる。来館者の多くは、美喜の人格とその信仰に認識を新たにするが、彼女の背後に“女彌太郎”の影を垣間見る人は殆どいない。旧財閥を物語るものはここにはない。記念館はおろかエリザベス・サンダース・ホームのどこを探してみても、あの「スリーダイヤ」のマーク一つ見つからないし、モニュメント一つ立っていない。立っているのは創立者沢田美喜の信仰上の愛唱成句が大きく刻まれたホーム正面ゲートの基準定礎石。そこには優しい文字でこう彫られていた――「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)。


本稿を書き上げた2020年5月12日は、奇しくも沢田美喜40回目の命日であった。

©松原まこと

 

◎著者プロフィール:松原まこと。長崎在住。元柏書店松原 社長。国内では希有な存在として宝飾専門の出版、販売をおこなっていた。「とうきょうジュエラーズ」、「美しい日本のオリジナルジュエリー」、「世界の天然無処理宝石図鑑」、「世界のレアストーン図鑑」など多数のジュエリー専門書籍の出版に尽力した。GIA JAPANのメールマガジンで「長崎かぜだより」を連載していた。

“長崎かぜだより「あゝ スリーダイヤ」” への 2 件のフィードバック

  1. 匿名 より:

    松原さまの連載をうれしく、楽しみにしています

    1. 小六堂店主 より:

      コメントありがとうございます。
      松原さんもこのような嬉しいコメントをいただけると、俄然やる気がでると思います。
      現在執筆されているという話しを頂いたので、近いうちに新作がアップできそうです。
      楽しみにお待ちください!

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