長崎かぜだより「文化元年長崎梅ヶ崎事情 3」

長崎を目指すロシア帆船ナジェジダがグロンシュタット港を出帆するその前日、皇帝アレキサンドルは津太夫ら一行を、ネワ河河畔で開催中のある見世物に招いている。皇帝が勧めるその出し物とは、果たして空前のスケールの“天空ショー”―――何と熱気球を、しかも“有人”で、天高く飛ばそうというもの。あまりの奇想天外に津太夫らは、大口を開けてただ天を見上げるのみであったらしい。また、伝聞によると、皇帝アレキサンドル自身が気球に乗り込み、ペテルブルグからモスクワまでの長距離を飛行しているが、史実としての真偽は定かではない。

1803年(享和3年)6月16日、遣日使節団と護衛海兵隊員そして帰還漂流民を乗せた大型帆船ナジェジダは、ロシア民謡を奏でる海軍軍楽隊が見送る中、遥かなる長崎に向けて、勇躍グロンシュタットを出港。津太夫、儀兵衛、左平、太十郎の4名はうち揃って甲板上に起立、オホーツク滞在から数えて10年間世話になったロシア大陸を、全員感無量のうちに見送る・・・・・。

陸地がバルト海の水平線の彼方に見えなくなる頃、津太夫は通訳に太十郎を伴ってレザノフの船室を訪ねる。
「畏れ多くも、皇帝陛下のことについて、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「構わん、何なりと」使節が快諾すると、
「ペテルブルグの空を飛んだあの熱気球には、一同驚いて腰を抜かしました」津太夫は続ける「あの空中劇で、陛下は本当は何を私たちに伝えたかったのでしょう?」
「それを知りたいか」使節は軽く咳払いして「ならば話そう。心して聞け」
「ぜひ教えてくだせえ」太十郎の目つきも変わる。
「あの気球は――」レザノフは改めて向き直る「アレキサンドル閣下の皇帝即位の際、フランス革命軍・司令官時代のナポレオン・ボナパルト将軍から届けられたものだ。以来、皇帝閣下は気球を何よりの誇りにしておられ、事あるごとに人々に披露し、時には実際皆さんにも乗ってもらっている」

―――フランスからの最先端品「空飛ぶ熱気球」は、フランス科学アカデミーの物理学者ジャック・シャルルによる国策開発品。何でも、濃硫酸液を鉄粉末の壺に注いで気化させ、それを鉛管に通して採集した「水素ガス」を気球に詰める。問題の気球の素材は、シート状の絹布一面に天然ゴムを塗り、それを球状に縫い合わせたもの。球底の開口部には、人が乗るためのゴンドラが吊り下げられる。ゴンドラの中央には“火鉢”が据えられ、熱源となる“柴”が焚かれて球内に熱が放出される。詰まっている水素ガスが熱せられて膨張し、気球はフワッと浮き上がる。

―――科学者シャルルを特別に支援したナポレオン将軍は、奇抜極まりないこの大傑作を、戦争史上初めて地上戦に導入した。オーストリア国軍を相手にした「フルリュスの戦い」(1794年)で、敵地空中偵察に気球を飛ばしている。

気球ショーの“真相”をようやく得心した津太夫と太十郎両名が、レザノフの船室を退出しようとすると、レザノフは二人を引き留めて、
「ご両人、ぜひ引き合わせたい御仁がこの船内に居る」
「はても一体どなたですか?」
そこでレザノフが合図すると、奥の船室から現れたのは、誰あろうあの善六であった。漂着した異境の地にいち早く馴染み、言葉を習得して読み書きにも通じ、正教会に通い詰めて自身のロシア洗礼名を名乗り、祖国帰還の道を自ら断ち切った男―――乗っている筈のない男がここにいる。
「善六には特命により本船に乗船してもらった」とレザノフ。続けて「いずれ知れることゆえ、今諸君にも知らせおく」  
「お言葉ですが閣下」津太夫は恐る恐る尋ねる「重々ご承知と存じますが、長崎入港時、船の中に異教徒をかくまっていればそれに連座した者全員、断じて無傷ではすみませぬ。ロシア正教と切支丹とは異質なもの、といくら主張しても長崎奉行所は、恐らく聞く耳を持ちません。無礼千万を顧みずお聞きしますが、善六がこの使節団に同行することを許可したのは、皇帝陛下ご自身のご差配ですか?」
 レザノフはしばし黙してから、重い口を開く「今は答えられぬ。だがやがて解かる時が来る」そして3人に微笑んで「その時まで諸君、互いに仲良くやってくれたまえ」

―――レザノフのこの最後の言葉を通訳したのは善六。彼は津太夫の方に向き直り、深く頭を下げる。そして、太十郎には明るく問いかける。
「日記は続いているのかえ、太十郎」
「んだな、続いとるよ。善六兄さんから漢字の読み書き、それにロシア暦とグレゴリオ暦(西暦)の数え方を仕込まれたお蔭で、一日欠かさず記しています」
「イルクーツク以来か?」
「そうです。博士(ラングスドルフ)にも助けてもらいながら、今はロシア語交じりで」
「そうか、そいつはタマゲタ。太十郎、おめえのような天才は、ロシアにもなかなかいねえよ。このまま国に帰っちまうとは、勿体ねえ話だぜ」
―――この日の甲板でのやり取りも、太十郎は1803年7月13日付けで、克明に日記に記している。

初夏の陽光がすがすがしいバルト海のとある島の入江で、帆船ナジェジダは風待ちのため錨を下ろす。元漁師で好奇心旺盛な左平は、海面まで降りて海水を飲んでみる。喉をつく塩辛さはなく、すこぶる舌にやさしい。“これがバルト海の真水か・・・・・”――二度と味わえない塩抜き海水を、左平は手製の瓢箪に詰めて船に持ち帰る。

かくの如き不思議なバルト海の淡水化に大きく係るのは、北欧3国を始め沿岸諸国(エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト3国及びプロイセン=現ポーランド)の山々からの雪解け水。厖大な降雪量が大地に無数の河川を造り、川の流れはみな惜しみなくバルト海に注ぎ込む。太古からのこの自然の営みに、“美しく”花を添えるものがあった。何を隠そう「バルト海産琥珀(コハク)」である。

―――沿岸諸国の山々に密生する針葉樹(松ヤニを作り出す各種の松の木等)が、悠久の時間の経過と共に腐蝕・固化・化石化し、雪解け水に交じって河川からバルト海まで運ばれ、そして海底に堆積する。時折り、天候のいたずらで海が荒れて波と共に海岸に打ち上げられる。幸運な琥珀は、そこで始めて人の目に出会う。

―――バルト海の真水を詰めた瓢箪を提げて、左平が船に上がろうとしたその時、寄せる波間にキラリ光るものを見た。もしかすると、それは比重1.0~1.1で水に浮く唯一の宝石、古生植物由来有機質の、人類最古の宝飾素材と云われる、あの「海底からのタカラモノ琥珀(アンバーAmber)」だったのかもしれない。――― 

 <つづく> ©松原まこと

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